書籍
「直す現場」百木一朗
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著者プロフィル
百木一朗(ももきいちろう)
1951年 京都生まれ
京都教育大学特修美術科卒業
1980年 奈良県生駒に一風工房設立
工業デザイナー、造形作家
併行してモノをつくることについてイラストや文を書いている。
著書に「ハンドワークノート」(プレイガイドジャーナル社)
児童書「パンクしゅうり」「かざぐるまのくに」「くつのうらはぎざぎざ」(福音館書店)がある
「パンクしゅうり」(かがくのとも212号/1986年)は5〜6歳児向けに自転車のパンク修理の一部始終を描いたものである。

はじめに

 私たちが使う品物のほとんど全ては工場の流れ作業で作られている。ロボットによる自動工場もある。しかし故障したとき、その修理は人がひとつひとつ手で行うしかない。
 また、工場の作業はそこだけを覚えれば一応はできるが、直しは品物全部の仕組みや材質がわかっていなければできない。高い技能と経験を積んだ人の仕事である。こういうことから直す現場は、機械仕掛けの現代にあって仕事をする人の息づかいが感じられる場所であり、モノを作ること(人)と使うこと(人)の接点が見えやすい場所といえるだろう。
 その仕事場へ行き、直し人の話を聞きながら記録してきたものをまとめたのが本書である。
「直す」という言葉は修理とほぼ同じ意味で使われていると思うが、私は改造やメンテナンスまで含むものと勝手に解釈を広げて多方面の仕事を見て回った。
 故障した所があって直すのがいわゆる修理だ。ほかに故障ではないけれど、体型が変わったため洋服のサイズを変えるような、改造・適合化がある。リフォームと言ったほうが一般的だろうか。改造を大幅にしていくと元とは全然違ったものになる事もあるがそれもよい。色を塗り替えるなどのイメージチェンジもある。
 そして、メンテナンスも各種とりあげた。点検・維持・整備とも呼ばれるもので、自動車の定期点検のように安全のため、機械の長持ちのためにするとても重要な仕事だ。
 さらに日常の手入れ、とでもいう事柄があると思う。例えば、電池が切れたとき電池を入れ替える。これは普通は直すとも言わない。洗濯などもその類だ。けれど、モノを大事に使い続けるときに人がする筈のこととして、これも含めて見るとよいと思うのである。電池が切れたら替えるのだから、故障したら修理してみればというふうに。そして掃除・洗濯もプロの仕事を見せてもらうと、なるほどと感心することが多々あった。
 作って使い、直してまた使う。そのとき直し人の経験ふかい仕事が何かを語ってくれる。

連載スタート時のまえがきより

(略) ものが狂ったり、ゆがんだりしたら、その都度、まっ直ぐに、あるいは、正しいように戻して使っていく方が気分がよい。「直す」というのはそういう考え方だ。
 もし、何か持ち物の修理を頼むことがあったら、ついでに、その仕事場をのぞいてみるといい。これから直されるもの、直し終ったものが並んでいる。皆んな、新品の時の様な完璧な顔はしていない。良くいえば個性がある、といったところだが、とにかく使われた跡がついている。
 一方では、修理屋には来ないで、もっときれいなまま「燃えないゴミ」に出されるものもあるだろう。だから直されるものは、幸せな奴なのである。それだけ使われた。その結果痛んだ。直ったらまた使おう、と持ち主は想ってくれている。そういうことなら修理を引き受けようというプロが、またいる。
 専用の道具類が並び、外科手術のように部品ひとつひとつ、縫い目ひと針ひと針、すすめられていく光景は人の目を引きつけるものをもっている。そのそばにある預りの品物は持ち主の手を一担離れて、何か醒めたような表情をしているけれども、そのものの「これまで」と「これから」にかけられた周りの人達の執念とかエネルギーといったものを感じることができる。
(略) 昔からの方法では直せない物も、どんどん出てきている。それでも、よく見ると直しはまだあちこちで頑張っている。「今では珍しい職人芸」という見方でなく、頼もしく、パワフルに動き続けている部分というとらえ方で「直す現場」を紹介していこうと思う。
 プロに任せきらなくても、自分でできることもある筈だと思って尋ねてみると、想像以上に親切に教えてくれる人が直し屋さんには多いようだ。我々の方が、ものに対するそういう姿勢を失いすぎているということかもしれない。

(1981年1月記。ずいぶん勢いこんでいるが、考えは今も変わっていない)


あとがき

本書の6ページから29ページの編は1981年から1982年に「プレイガイドジャーナル」で、30ページから125ページの編は1999年から2002年に「大阪人」で連載したものである。ふたつの間は随分年月が開いているが、直す事への興味は持ち続けていた。私の地元である京阪神地域が対象であった。物作りにおいても歴史と熟練のある土地だと思っている。
 いずれも年数を経ているため、今回出版するにあたって取材させていただいた方のお名前や会社名を一部を除きイニシャル表記にし、共通に「直し人」という呼び方に改めることにした。また一部加筆をおこなった。ご了承をお願いしたい。また当時の両雑誌編集部の協力に改めて感謝します。
 直し人は(なおしにん)と読んでもらってもよいし(なおしびと)でもよいと思う。
 前書きで、直すことには改造やメンテナンスも含むのだと書いたが「直す」はやまとことばで私は修理よりこの言葉が好きである。似た他の語もあることに気付いた。少しずつ意味は違うが、繕う、営繕、修復、手入れ、面倒をみる、調子をみる、さわる、いじる、といった表現である。たとえば、庭いじりという言葉がある。また、人の身体をなおすのは「治す」と書くようだ。 余談だが関西弁では直すは片付ける意味もある。考えてみるとモノを使う暮らしの中では片付けることも大事な流れのひとつにちがいない。
 直しの「現場」へお邪魔して仕事を見せてもらうのは大変興味そそられる事だった。直すのは作ることと同じであるとわかった。また、モノが暮らしの中でうまく使えるように作られていると実感できた。現在はモノは商品として完璧なまでに仕立てられ、消費者はそれを購入し消費する。買い替えていく。作ることと使うことが分離してしまっているように感じる。
 私の少年時代には、路上や店の前で物を作ったり直しているところが多くあり、通りかかると仕事の様子を眺めることができた。 たぶん1960年代頃までそうであったと思う。 修理して歩く行商人のような人も居た。
 しかし町が豊かになると共に、近隣の住民はそれを汚い、うるさい、危険だ、と言うようになり、作業場は道路に面する扉を閉ざして中へ引っ込まざるをえなくなった。 たとえば溶接の火花が飛んだりすることはなくなった。 住宅の建設現場も資材が運び入れられて、さあこれから面白くなる、という時にしっかりした覆いで包み隠されてしまう。
 直す現場とはその覆いをくぐって入らせてもらい、作業を見せてもらうことだ。ここまで使い込んだ人がいるとは見事だな、とか、これは改造して元より良くなっていますね、などと話しながら手順や道具を見る。年輩の人だけでなく若い職人さんもいた。
 それをイラストにするとき、私は直す人の姿を描かなかった。その人が居る足型の場所やお尻の場所を点線で示すにとどめている。それは私の描きたいものが道具や仕事の仕方であって人物の顔形ではないからだ。人の陰で道具や仕事場が見えなくなることもない。 そのため透明人間が作業しているかのように道具は空中に浮いたりしている。おかしな方法であることは承知しながらこれはこれで良かったのではないかと思っている。

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